単純に、 強くなったか 弱くなったか と問われれば

それは勿論 後者 だろう。







インターホンを鳴らして、機械越しの誰何に「俺だ」と答えてすぐ、渡された鍵を使って扉を開ける。

ただいま と言った。
おかえり と返って来た。





居間へ行くと、既に温かい匂いに満ちていた。
トントン と軽い音が台所から聞こえてくる。
……今日はごま油の匂い。この家の食卓の、定番になって久しい調味料の一つだ。
と言うことは、自分の好きな中華料理なのだろう。

どさりとソファに沈み込んだ。
そのまま、点きっ放しのテレビを何となく眺める。

垂れ流しになっている映像は、今話題のトレンディドラマ。
余り興味はなかったからそれ程内容は知らないが、確か職場の同僚が嵌っているとかで、耳にした覚えはある。

「………」

そっと後ろを振り返る。
材料を刻み、鍋と流しを往復する姿が視界に入った。
彼女も観ていないのだっけか。確か。
一度何の気なしにそれを尋ねたら、「だって私、その時間はお夕飯作ってるから、観れない」と返って来たような気がする。

それならば、何故いつもこの時間帯、観もしないのにテレビをつけているのか。電気代の無駄じゃないのか。
そう尋ねたこともある。
そうしたら。

『―――だって、おとがしないの、さみしいでしょう』

確か、そう、言っていた。
そしてこうも言っていた。

『まあ、蓮がうちに来てくれた時は、別に必要ないんだけどね』





テーブルの上に新聞が折り畳まれて乗っている。
その横には、読みかけの週刊誌。
電車の中で、よく吊り広告で見かける奴だ。
何となく覗き込んだ。

この手の雑誌を見かける度に、思う。
彼らは一体、どうやってこのネタを仕入れてくるのだろう。
毎週、毎週。
誰かが食いつきそうな情報を。よくもこんなに。

それが真実か否かというのは、正直どうでもよい。
大体、そう読んでいる訳でもないのだ。だったら新聞の方が余程いい。
ただ。
それをつくり続ける彼らの発想が、突飛なのか
それとも、世間には本当に、突飛な情報が転がっているということなのか。
こんなにも。
凡そ二百頁分の非日常が。



ふと蓮は顔を上げて、再び台所に立つ彼女の後姿を見つめた。

仕事を終えて、恋人の家に夕飯を食べにやってきた男と
それを出迎え、慣れた手つきで支度をする女

こんな情景、雑誌の裏にいる彼らにとっては、ネタでも何でもないだろう。

ありふれている。

―――どこにでもある光景だからだ。
記事になんてならないし、出来ない。

これが、大多数にとっての日常というものだからだ。





俺は今 その日常にいるのか。





そんなことを、ふと思う。特に最近、良く。

仕事で疲れて、翌日が休みの日には必ずと言っていいほど此処へ押しかける時
合鍵を渡された時
いつしか、ただいま と言ったら、おかえり と返って来た時
だんだんと、台所の棚に調味料が増えていった時

―――「『豆板醤』なんて、普通あんまり備えてないとおもうよ」

そう言って、おかしそうに、それでも柔らかく笑ったあの顔に

それから それから

まだあるような気がして
やがて、蓮は思い当たった。

―――――……今 とか。

温かい匂いに包まれて
テレビをつけっぱなしにして
後ろではコトコトと鍋を煮込む音

俺はたった今、「当たり前」を、享受している。



もうすぐご飯になるからね

不意にが振り返って、そう告げた。
それを受け、食器棚から二人分の皿を並べた。…この茶碗も、使い慣れてから久しい。

「あ、こっちよそっといてー」
「ああ」

言われるまま、自分と彼女の茶碗を手に、炊飯器から米をよそう。
ほかほか と顔に湯気があたった。

「蓮、慣れたね。ご飯よそうの」
「そうか?」
「うん」


いつもと変わらぬ光景。
たぶん、まだまだ、これから先も。

ならば。


「―――そろそろ、一緒に住むか」

出来るだけ、さり気なく言ったつもりだった。
ぴたりと彼女の動きが一瞬止まった。

此方としては、こう毎回毎回不定期に彼女の家に上がりこんで、夕飯を出して貰って、
ありがたいと言えばありがたいのだが、正直自分からは何も出来なくて。申し訳なくもあって。
だからせめて同じ屋根の下にいれば。
他のところで、彼女を助けてやれるんじゃないかと。
前々から、思っていたのだ。

「―――そうだね」

だがしかし、たっぷり間を置きながらも、返って来たのは素っ気無いその一言だけだった。
思わずむっとする。
何だそれは。
此方は、少なからず、踏み出す勇気を要したのに。

「さ、食べよ食べよ。お腹減っちゃったー」

はあっけらかんと、二人分の箸を棚から抜き出して、食卓へ向かった。

こいつ、本当に聞いていたのだろうか。
まさか適当に聞き流したんじゃないだろうな。

そうじりじりと考え込みながら、仕方なく自分も席についた。

食卓を彩る鮮やかな料理が、視界に飛び込んでくる。
予想に違わず、今夜は中華料理。

「いただきまーす」

ぱん、とひとつ合掌をして、先にが食べ始めた。
渋々自分も箸を手に取ろうとして。

――――互いの箸が、ちぐはぐになっている。

ようやく気付いた。…気付いて、少しだけ、安堵した。
緊張しているのは、自分だけじゃなかったらしい。










単純に、 強くなったか 弱くなったか と問われれば
それは勿論 後者 だろう。

昔はひとりで平気だった。何も疑問に思わなかった。

でもある時、だめになった。

人が温かいことを、知った。
一端知ってしまうと―――今度はそれを失うのが、とてつもなく恐ろしくなった。
孤独を恐れた。
喪失を恐れた。

代え難いものを、見つけてしまった。

自分の価値観や信じるものは、
変わったものもあれば 変わらなかったものも勿論あって

ただ
ひたすらに前を見据えて 進み続けて
自分が正しいと思うことを かかげ続けて

時々、ふと 立ち止まってしまう時がある

そんな時、振り返ったら
必ずこいつがいて



―――――ありがたい と
無性にそう思うのだ。





―――彼女は未だに、長さも形も合わない箸で、一生懸命料理を口に運んでいる。
食べにくいだろうに。
その目は、微かに、泳いでいて。

(……はやく、きづけ)



くす、と小さく笑ってやった。

彼女が なっ何よう と上ずった声で尋ねてきた。
照れ臭そうな、じんわりと聞きなれた声が、耳にしみこんでいく。




―――不思議だ。

何故だか不意に 泣きそうになった。







花の芽

(どうか、だれも、とりあげてくれるな)